瓶がころがって、そこにある。
それだけのモチーフなんて、
並の絵描きなら、
しりごみしてしまう難しさだ。
いや、
それは瓶になにも感じていないものの台詞なのだろう。
絵描きというものは、
手に惹きつけられたら、
それだけをモチーフとして
一生を終えることもある、、
かつてそのように語った画家がいたことを思い出す。

S氏は瓶ばかりを描くわけではないが、
このような瓶に
私などには窺い知れぬ何事かを視ているようなのだ。
氏はこの瓶を相手にして
どれだけの時間をどのように過ごしたのか?
それがどのようなものであったにせよ、
ここには他にはめったに見られぬものがある。
瓶のボトム部分の質感から引き込まれていくあたりから
正直驚嘆させられるものがあるのだが、
PCのモニターでどれだけ感じ取れるものか?

そこにあるものはとてもはかなくて、
すれすれのところで命を失ってしまう。
かいま見えたかと思われても、
すぐ見失ってしまったりする。


そもそもそのように
生きたり死んだりする。
そこいらの「何か」を
「絵」というのではなかろうかと
私は考えているのだった。

鏡の中の自分の顔を見続けること。
ずっと、ずーっと、長い時間が過ぎた。
描かれたものはS氏の何と繋がっているのか。
触覚的な視線が捉えているものは
紙の上で極めて繊細で複雑なメチエを生み出した。
存在感はそれがどのようなものであるにせよ、
説得力を持つ。
そこに在るものとして、
そこに生きているという事として。

何を確かめているのかわかることがなくても、
何かを確かめているのはわかるようなのだ。
その結果がいわゆる絵でなくても構いはしない。

0030603 nabeshima

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